...23年8月22日写楽
23年8月22日・猪苗代町に御座います、土津神社
(はにつじんじゃ)へ行ってまいりまして・・・ここに永眠する会津藩城主:松平家の祖先、神式に祀られて居ります「保科正之公」の墓所地へお参りして写楽して参りましたものに御座います。
※4〜5日前会津で少し揺れの強い震が御座いまして、その地震による影響なのか、石塔が横倒しになって御座いました。
この地は、何度参りましても神秘的空間に溢れ・・・僕としましては、その空間がとても心落ち着くものに御座います。
・・・一度は参られよ。

保科正之公は、慶長16年〜寛文12年、2代目将軍:徳川秀忠 正室奥方:お江与の方とは別に他の女性、お静との間にできた子供・・・幼少名が、「幸松」後の保科正之公となります。・・・父・2代目将軍、徳川秀忠公は、正室お江与の方の気をそこねないよう、「幸松」の認知を正式にはせずに、武田信玄の二女・見性院に養育をさせることになります。
後に、養育する見性院は信州の城主:保科正光公に預け、保科家の養子となって名を保科正之と改め・・・西暦1631年・寛永8年、21歳の時信州高遠3万石藩主となります。

3代目将軍:徳川家光公は、父・徳川秀忠の死後、弟がいることを知り実弟の保科正之公と対面・・・後に、最上(現在の山形県)20万石藩主へと・・・そして、正之公32歳の時、徳川家光公への忠勤一筋だったことでこの会津藩23万石を与え城主として勤めさせ・・・家光の死間近にあった際にも家光の子、「家綱」を正之公に託したと言います。・・・その後、保科正之公は大老まで上り詰め幕府の中枢に参画・・・会津藩は松平家となり激動の幕末に役割を果たすこととなります。