臨済宗霊厳山圓蔵寺
番外 柳津観音

 23年12月2日写楽   
                     22年5月写楽のもの使用
...........................................................会津33観音番外・柳津観音・・・釈迦如来................................................................
   ..............祭礼: 1月1日、7日・4月13日・8月10..............................................................................................................
所在地河沼郡柳津町大字柳津字寺家町甲176

※御詠歌・・・1詠歌: 柳津は 岩に聳えて 懸造り 前には只見の 船の浮はし・・・やないづは いわにそびえて かげづくり まえにはただみの ふねのうきはし       2詠歌・・・まどかにも おさまる月の 影見れば 心に騒ぐ憂き雲なし・・・まどかにも おさまるつきの かげみれば こころにさわぐ うきぐもなし        3詠歌・・・流れての 世にも耐えせず 只見川 ただ御仏の深き誓いは・・・ながれての よにもたえせぬ ただみがわ ただみほとけのちかいは        会津33観音番外 ここ柳津観音には3つの御詠歌があると言われて御座います。
福満虚空蔵尊圓蔵寺本堂(菊光堂)裏手北側に、番外柳津観音堂が御座いますが、・・・ごく目立たない裏手側となっておりますので菊光堂を取り囲む通路に面して行かれますと、(番外柳津観音堂)を案内する小さな立て看板が見えて参ります・・・対面、参拝できます。
観音堂の安置仏は釈迦如来となり、また虚空蔵尊圓蔵寺に安置されて御座います仏は、虚空蔵尊菩薩になります。

福満虚空蔵尊圓蔵寺
虚空蔵尊菩薩は、空海作のものとか・・・空海は、西暦774年宝亀5年、四国(現在の香川県善通寺市)で生まれ・・・幼名を真魚(まお・俗名:佐伯眞魚さえきのまお)と云われ子供のころから物覚えが良くその才覚は世に認められるほど、15歳になると皇子伊予親王・・・桓武天皇の子の尊師にある、阿刀大足から論語・孝経・史伝などを学ばれ、後に都(奈良)の大学(寺院)舎で明経道、春秋左氏伝・毛詩・尚書を学ばれる、その学びに物足らなさを覚えて、奈良県吉野の金峰山そして、四国の石鎚山と山林での仏道修行を自ら重ね仏教思想を学ばれたとか。・・・24歳のときに儒教・道教・仏教等の比較思想論・・・聾瞽指帰(ろうごしいき)を示して俗世の教えには、真実に無い間違いがある事を示されたと言われ、正に中正な思想家の層にあったように思えてきます。
また空海は、東大寺戒壇院で得度受戒されて31歳の時、船に乗り唐の国、中国へ修行に参りますが、その中国で
伝法阿闍梨位の灌頂を
拝受され遍照金剛(へんじょうこんごう) の灌頂名を与えられる。 その後日本に帰国するのですが、この時唐の国 中国の高層から霊木を貰い受け、帰国途中その霊木を3つに分け海に流されたと伝説的に言い伝えられて御座います。・・・時を得て、
その
3つに分けた霊木がここ柳津と茨城・千葉に流れ着き、その各地に虚空蔵尊菩薩を彫り置かれたと言い伝えられているもの、三大虚空蔵尊で知られる。・・・後に、会津に仏教を広められた法相宗:徳一大師が、西暦807年大同2ここ河沼郡柳津町に福満虚空蔵尊圓蔵寺を開創され、お堂には弘法大師(空海)作の、虚空蔵尊菩薩を安置されたものと云われております。  また会津藩主の信仰も篤く、葦名氏を初め、会津領主から寺領を代々保護されていた寺院にあったとか。・・・西暦1818年文政元年のころには、火災にあったらしく十数年後の西暦1830年文政13年に再建された福満虚空蔵尊圓蔵寺にあると言われます。
また
本堂の再建の際に山林から資材を運ぶのに人手に負えない難儀があり、これを牛に運ばせた・・・牛は登り坂に差し掛かると前足をくっぷして登る習性があり大いに人助けとなって、活躍しこの地の人々はお堂の再建後に、敷地内に牛の石造を作り称え祀ったとか、・・・この事により会津地勢だけでなく他県においても広く、赤べこ発祥の地として知られているものに御座います。