亀ヶ城址公園
・ ・●亀ヶ城 猪苗代城 亀ヶ城址公園  

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所在地: 耶麻郡猪苗代町古城 (耶麻郡・やまぐん・・・猪苗代町、西会津町、磐梯町、北塩原村の3町、1村含めた地)
御紹介します亀ヶ城は、猪苗代町駅よりゆらりと徒歩にて1520分程のところ(5)・・・磐梯道路猪苗代磐梯高原ICからは、
10分程の地に御座います。
慶応4年・西暦1868年の戊辰戦争・「会津戦争」では会津鶴ヶ城の重要な地にありその役割を果たしていた城に御座います。
「母成峠」を攻め落とし突き進んで侵入してくる西軍は、次にこの亀ヶ城を攻撃して参ります・・・城主は、西軍の軍地と成らぬようこの城を自ら焼き払い会津城下へ逃れて行きここ亀ヶ城は落城となって御座います。

正式名は、「猪苗代城」と言われ 「亀ヶ城」とは別名にある呼び名・・・城の構築に付きましては、こと西暦1189年・文治5年の奥州合戦、鎌倉政権・奥州藤原、間で東北地方猪苗代での戦いにあった・・・「奥州征伐」の際、その働きに寄って将軍「源頼朝」(みなもとりよりとも)から会津四郡を与えられた、佐原経連(さわらつねつら) が 鎌倉時代 西暦1191年健久2年に築かれたもの・・・この佐原経連と言われる人物は、「写楽観光」ページメニューに御紹介して御座います 三浦義明の三男にある「佐原義連」 の孫に当たる人物に御座います・・・後に、佐原経連の代から14代目・猪苗代盛胤(いなわしろもりたね)の代まで居城されていた御城に御座います。

※「後々に佐原義連の孫にある光盛の代から会津の芦名の姓を名乗って御座います・・・。」

天正
17年・西暦1589年には伊達政宗公と会津芦名義広公との「摺上原の戦い(すりあげはらのたたかい) があり、この時 隠居の身に在った 猪苗代盛国は主家を裏切り伊達政宗公と内通、亀ヶ城内に伊達政宗公を侵入させ、伊達軍の攻めに芦名軍は耐え切れず黒川城へ敗走・・・その途中、日橋川にて再び伊達軍と激戦となりますが芦名軍の敗戦と相成って御座います。
内通にあった猪苗代盛国は、主家:猪苗代盛胤と仲も良くなく伊達政宗に内通し、亀ヶ城を乗っ取ってしまいます。
・・・この伊達政宗公の会津攻めに対して、豊臣秀吉公の「惣無事令」を無視し反して成された戦いに秀吉公自ら激怒されこれを断固許さずの構え・・・奥州仕置によって、伊達政宗公より獲得地の会津領その他をお取上げ、没収されたもの・・・後に、会津は蒲生氏郷公が会津城主となっり、黒川城から鶴ヶ城と改められて御座います・・・ご参考、
「写楽観光」ページメニュー「蒲生氏郷公」ご覧頂けます。