会津鶴ヶ城
 

...............................................................会津鶴ヶ城/2383日写楽
西暦1593年に蒲生氏郷公が七層の全体的に黒の天守閣を作り、このお城を「鶴ヶ城」と名付けられたと言われております・・・参考、現ページ内
「蒲生氏郷」後の、4代目城主を除いて〜5代目城主:蒲生秀行公(蒲生氏郷公の実子)が会津の城主となった西暦1601年この10年後の西暦1611年に
19000戸を越える家屋などが倒壊する会津に大地震がおこりました。・・・死者の数も3000人を超えるマグニチュード7と言うものだったとか。 
またこの大震災で七層の天守閣も傾いてしまい、土石流が起き石垣などが崩れ落ちたと言い伝えにございます。
当時その修繕補強をされた状態であったと思いますが、この1年後西暦1612年に30歳で秀行公は他界してしまいます。
後の、西暦1627年会津城主:加藤嘉明公〜実子・加藤明成公の2代の時代で、鶴ヶ城敷地全体の大改修に・・・此れまでの七層の天守閣から天守閣全体が
安定した丈夫な5層の天守閣に建て直されます。




■■■
会津松平家■■■
初代・保科正之公 二代目・正経公 三代・正容公 四代・正容公 五代・容頌公 六代・容住公 七代・容衆公 八代・容敬公。
京都守護職・・・長州藩との戦いの最中、将軍の護衛として松平容保公は会津藩の誰にも告げずに江戸城に去ってしまう。
この責任を軍事奉行:神保終理が・・・・・・背負うことに、ページ内「白虎隊」合わせて御覧下さいます様。




■■■後に会津に戻ってくる・・松平容保公と藩主たち・・
※九代会津城主:松平容保公
松平家会津藩祖の保科正之公の会津の基礎作りとは・・・人々の生活、世の中を良くして行く研究の学問だと言われます・・・これを「儒学」と言うとか
現代の教育でも無論の事、日本教育では国民全てが義務教育で執り行なわれています。
会津戦争・・・戊辰戦争、西軍(長州藩・各藩)が攻め入る攻撃に、応戦するが武器弾薬も無くなり、怪我人も多く、
食事もままならない有無の状態・・・前後作をとり鶴ヶ城に立て籠もる篭城戦に・・・この間、米沢藩へ援軍の要請を願って走らせた、弟定敬(さだあき)と
共に来るはずの援軍のチャンスを待つが、これまで一ヶ月余りの篭城戦から城内の怪我人、子供、女子全ての状況から
会津藩城主:松平容保公が取った決意とは・・・開城、降伏。



(※京都守護職・禁門の変、詳しくは・ページカテゴリー内「白虎隊」)
会津戦争後、会津城・・・鶴ヶ城は明治政府軍陸軍省の命により、明治七年に一度取り壊されてしまいます。その後残った城跡は、
旧会津藩士・また市民の強い要望もあって昭和四十年に昔のままに鶴ヶ城は復元されました 。 この復元にあっては、当時の構図や資料をもとに造られ
より本格的なものとなって、復元されたお城に御座います。
※(天守閣の鯱さらに、大地震にも耐えられるよう数十メートルの柱が地に埋め込められて天守閣の安定を(強化)保つなどの地震に備えた現代に最も
相応しい本格的な作り。)