蠶養國 神社

トップへ戻る ・ ・・・   平成23年4月28日写楽のもの・・・          ・   ・        ・
●所在地 : 会津若松市蚕養町2番1号
会津戦争・・・戊辰戦争の時には戸ノ口原での合戦に敗れた報に会津藩の兵・桑名藩の雷神隊・神風隊・致人隊がこの周辺地の防衛に就いた地に御座います。
蚕養國祠に就いて守備にあった、会津藩兵と桑名藩の兵は この地にて攻め寄る西軍と激戦となり・・・この日、会津藩国産奉行であった河原善左衛門と桑名藩 原八四朗、同上崎且馬 戦死された地にあるもの・・・この蚕養神社はその時の会津戦争 戊辰戦争時の激戦にも奇しくも損傷は免れその後、補修等をされて現代に残されているもの。境内には、末社五社と名木 「峰張桜」 石部少将道秀と堂家左京大夫憲照が 社殿を草創された際に植えられた桜と伝えられる桜が会津五桜の一つに数えられている・・・。

ここ蠶養國神社は、延喜式内社の一つにあり日本国内で唯一つの社に御座います。 また祭神は、保食大神
(うけもちだいじん)・稚産霊大神(わくむすびだいじん)・天照大御神の三神が祀られており、養蚕の神にある社なります。
嵯峨天皇の御代、弘仁2年・・・西暦811年のころ、鎮座で仁明天皇の承和年間834年〜847年のころに鎮守府将軍・藤原富士麿朝臣の奏で官社に列せられ、醍醐天皇の御代、延喜式内社となったと伝えられて御座います・・・。
   

寛弘7年・・・西暦1010年、県令の石部少将道秀、堂家(だけ)左京大夫憲照、石塚丹後頼春などにより社殿を創建され・・・その時の神官が
蚕養藏人にあって、社地も広く華構壮麗を極め・・・社は養蚕の神としてその信仰も大変厚かったとか・・・。 
その後 幾度かの兵火により社殿は焼かれ 神官・社僧も居なくなってしまい・・・天文、西暦1532年〜1555年のころ榎古木
(えのき)二株を御神体として植え祀ったもの・・・また後にその榎も台風に吹き倒されてしまい荒廃してしまい・・・後の会津藩主・保科正之公が、これを憂い 社領10石を寄せ社地を広め社殿を造営されたと云うものに御座います。
その時、吉川惟足に御神体を定めさせ・・・また諏訪神社の祝部大膳權亮尚に神官を命じ、寛文9年 西暦1669年11月に
遷宮の儀式を行ったと今に伝えられて御座います。

寛弘7年・・・西暦1010年、県令の石部少将道秀、堂家(だけ)左京大夫憲照、石塚丹後頼春などにより社殿を創建され・・・その時の神官が
蚕養藏人にあって、社地も広く華構壮麗を極め・・・社は養蚕の神としてその信仰も大変厚かったとか・・・。 その後 幾度かの兵火により社殿は焼かれ 神官・社僧も居なくなってしまい・・・天文、西暦1532年〜1555年のころ榎古木
(えのき)二株を御神体として植え祀ったもの・・・
後にその榎も台風に吹き倒されてしまい荒廃してしまい・・・後の会津藩主・保科正之公が、これを憂い 社領10石を寄せ社地を広め社殿を造営されたと云うものに御座います。
その時、吉川惟足に御神体を定めさせ・・・また諏訪神社の祝部大膳權亮尚に神官を命じ、寛文9年 西暦1669年11月に遷宮の儀式を行ったと今に伝えられてあるもの・・・。
  
●またその後の文化4年 西暦1807年にも 社殿が焼失してしまう等の災害にあい、会津藩主・松平容敬公が 文政2年の西暦1819年に初代藩主・保科正之公の創立した社殿を再営され・・・地方民は毎年蚕の終わる時に繭玉
(まゆだま)を奉納し、また綿の初穂を伝えるのを例とされたもに御座います。
京都市右京区と言われる地に、木島坐天照御魂神社
(このしまにますあまてらすみたまじんじゃ)と言われる社が御座いますが、その境内に「蠶養神社」と言う社が御座います・・・ここ祭神には、保食神・蠶神などが祀り置かれ 絲、綿、絹などを商う商人の尊崇篤く地方に広く知られておりますが、蠶養國神社(こがいこくじんじゃ)は日本国内に会津にのみ存在する社に御座います。