上杉景勝の野望の城
神指城 跡

 23年11月17日写楽                                
TP戻る      本丸西御門濠跡から・・・ ・・・・・・・             
上杉景勝公、直江兼続の築城構想では、この西門濠から小船で大川に出、塩川の川湊で帆掛船に乗り換え阿賀野川を下り・・・そして日本海へ出、諸国と貿易ができる城郭都市の大構想計画にございました。・・・しかし、徳川家に隠して始祖かに行っていた築城にあり、この築城途中、徳川家に知れてしまい会津征伐となりその情勢から工事は中止廃城となり叶わずの幻の城にあります。

●上杉景勝への処罰は、関ヶ原の合戦後、西暦1601年慶長5年に上杉景勝公は会津120万石を召し取られ、米沢30万石に移り変わって御座います。
この神指城は、蒲生秀行公が宇都宮(※参考ページ:メニュー蒲生氏郷公)に移封となった後、西暦1598年慶長3年に会津藩主となった上杉景勝公が、重臣である直江兼続に命じて築城させたお城となります。

※西暦1600年慶長53月から工事が開始され、約3ヶ月後にはその土塁から周囲の形は整っていたと云われております。
本丸の広さだけでも5600uとあり、二の丸を含むと500000uとなる膨大なものにあり現在の鶴ヶ城を遥かに凌ぐもの。
この高瀬地を選んだ訳としましては、鶴ヶ城の位置が会津盆地の東南隅にあることから城や城下町を拡張していくに難しかった為・・・ここ高瀬地に築城されたものであるようです。