会津娘子隊
隊長 中野竹子

TP 戻る  23年9月16日・写楽.5..  

■■■中野竹子:嘉永3年西暦1850年、江戸和田倉の会津藩邸内で生まれました。■■■
中野竹子の父は、会津藩士・中野平内と言われる方が父、この父の役職は江戸城:参勤交代・江戸詰勘定役の役職に付いて居られた方。
その娘にある中野竹子は、学問にも優れた才能の持ち主にあり、薙刀の名手でもございました。  
「慶応4年西暦1868年の鳥羽・伏見の戦いにより戊辰戦争が勃発し会津の悲劇と・・・」会津に攻め寄る敵、新政府軍・・・二本松城を敗り、そして母成峠へと
侵入してくる・・・その数、約
2500人余りだったとか、対会津は伝習隊700名余りでの激戦、三倍強の敵の人数・武器に圧倒され
負傷者も数多くでてしまい不利な体勢・・・一時、猪苗代亀ヶ城へ撤退を決意し・・・後に亀ヶ城へ自ら火を放ち、敵、新政府軍の足止めをし
本城鶴ヶ城へ急ぎ伝習隊参戦となります・・・。


敵、新政府軍はさらに十六橋、戸ノ口原と突き進んで内地へ侵入し会津盆地入り口とも言える滝沢本陣を攻撃、後に823日、盆地の中心地へ
踏み入れ鶴ヶ城周辺の攻撃に侵入してくる・・・城下では早鐘が鳴り響き、城へ引きこもる態勢がとられた。
城の正門は、硬く閉ざされ篭城戦へと・・・
この3月23日、中野竹子・優子・娘子隊十数名は鶴姫をお守りするために、髪を短く切り身動きの取れる
袴姿に変え・鉢巻・襷をし脇差を差して薙刀を持ち城へと急ぎ駆けつけます。しかし鶴ヶ城の正門は硬く閉ざされており
城内へ入れる状態になかったと言われております。
 

中野竹子は、「このまま引き返す訳にはいかない、如何様にしてでも鶴姫様をお守りしなければ。」と、攻め寄る敵、新政府軍と刺し違える
覚悟で城下の様子を伺っていると、すれ違う人々から照姫様は、密かに坂下の法界寺に身を寄せられているとの話を聞きます。
即に、法界寺・坂下町に向かいますが、夜も更け足元すら見えにくいころ暗くしてようやく法界寺に着くと、照姫は弟松平容保公を気遣ってか、
お城に戻られ法界寺には居りませんでした。
その夜、中野竹子・妹優子他、数十名は法界寺へ泊まり・・・早朝、この会津坂下地を守備する
萱野権兵衛に従軍を申し入れします。しかし断固これを聞き入れて貰えなかったと言いわれます。
中野竹子は本より敵、新政府軍と刺し違えてでも戦うことを決意したその気持ちに変わりは無かっただけに中野竹子は
「従軍し参戦の許可を頂けないのであらば剣術を身に付けて何としましょうや、女とて潔くここで自害の覚悟は出来ております。」と
小竹のその一言が、守備隊
:隊長・萱野権兵衛の、迷いを解き、女子なれど中野竹子の意地と熱い思いに打たれ、許可され「会津婦女薙刀隊」・・・
娘子隊が結成されました。・・・あっぱれ 小竹殿




参戦された中野竹子を隊長とした・妹優子他数十名の娘子隊は、会津若松鶴ヶ城、内地へ向かい攻め寄る侵入者・新政府軍と激戦となります。
若松城下、今の神指町黒川に御座います「涙橋」辺りまで来ると、敵と出会い頭となり、この涙橋辺りで激しい戦いと成りました。  
小竹の薙刀が地を払い天を舞うがごとく、敵の白刀を跳ね返し足元、動、腕、と切り込み返し敵に死傷を与え倒して行く、
この涙橋で出会い頭に会った新政府軍は、長州藩と大垣藩の兵であったと言われており、この中野竹子に、てこずる新政府軍は、
銃をかまえ狙い撃ち惜しくも無念の最後となってしまいます。


中野竹子は
坂下町曹洞宗法界寺に埋葬され、その時の遺留品等が今も残っており観覧が出来ます。
・     ・・   ・

・・・小竹の時世の句・・・
「武士(もののふ)の猛(たけ)き心にくらぶれば、 数にも入らぬわが身ながらも」
中野竹子、(幼名:小竹)時18歳。

■■■中野竹子殉節の碑■■■
 所在地: 福島県会津若松市神指町黒川字薬師堂川原甲1016
戊辰戦争で、柳橋(
涙橋)近で奮戦し戦死した跡地、娘子軍隊長中野竹子の碑も御座います。・・・御参考まで。