蒲生氏郷公

................................................. ? ?????・・・・・・・・・・・・・・・・?????????会津の歴史「蒲生氏郷」

所在地:興徳寺・・・会津若松市栄町2-12
●三代目城主蒲生氏郷公・・・豊臣秀吉公が日本全国統一後、秀吉公より92万石を与えられて・・・1590年に会津に入城された。・・・その3年後の1593年、7層の天守閣を建築し完成。・・・黒川城から鶴ヶ城と名づけられたのは、蒲生氏郷公の幼名が「鶴千代」であったことや、また出身地が当時「近江」現在の、滋賀県の生まれにあり蒲生家家紋も、「立ち鶴」であった事から「鶴ヶ城と」名付けられたと言われています。



※蒲生氏郷公の会津での産業復興には、特に近江
(滋賀県)から蝋燭作り職人や塗師、酒造り職人 (杜氏・とうじ)などの多くの職人を集め広めた。・・・今の時代にもその技法は残り伝えられて御座います。

豊臣秀吉公の朝鮮出兵の際にも参加し、その後病に倒れ西暦159527日京都で40歳の生涯を閉じてしまいます。
※妻子は妻、冬姫(織田信長の次女)と、秀行後の5代目会津藩城主となる。

●蒲生氏郷が亡くなった後、 (1595年〜1598)豊臣秀吉公は氏郷公の唯一の子、秀行13(徳川家康の三女、振姫 が妻。)を会津藩92万石の城主に任命・・・しかし、秀行の母冬姫が、秀吉公の呼び出しに出向かないなどの姿勢があったりと、また会津藩の藩士の中には、13歳の秀行が92万石の跡継ぎになることに幼すぎると言う反対の者と賛成する者との対立、余りにもいさかいが続くもので・・・秀吉公は何か言い考えが無いものかと思案に悩んだ末、下された蒲生秀行公への任命は・・・下野国 (現代の栃木県)宇都宮藩、当時宇都宮周辺を領土として譜代藩 (ふだいはん)がおさめていたが西暦1597年に名族宇都宮氏、国綱 (くにつな)の代に滅びてあったこの地の宇都宮藩城主として会津藩92万石を取り上げ、宇都宮藩城主として18万石を与えた・・・西暦1598年〜1601年。
※後に、関ヶ原の戦いが起こり妻の実父徳川家康に加勢し勝利に導いた褒美として、万石を与えられ再び会津藩城主となります (1601年〜1612年、秀行30才病死1612)。秀行の跡蒲生家は、秀行公の子、忠郷がおりますが25才で他界、また忠郷の子、忠知も30才で急死してしまい蒲生家は滅びてしまいます。